『一般意思2.0』読んだ
話題になってたので読んだよ。この本(や「一般意思2.0」という言葉)についてはいろいろな人が言及していて、とりもなおさずそれはこの本が良い本だっていう証拠だと思う。
それを聴いたり読んだりした人が、自分も何かを語らずには居られなくなるような言葉に価値がある。
個人的に、人間の存在意義は発展的であることにあると思っていて、閉塞よりも開放が、硬直的であることよりも柔軟であることが、不自由よりも自由であることが、好ましいと思っている。*1 そういう意味で、この本の内容も受け取られ方も、とても良い感じだと思う。
ちょっとプログラマとして補足できそうなところがあったので要点を抜粋して感想を書いてみた。自分はただの平凡なプログラマであって現代思想とか社会学の専門家とかじゃないので、まあ参考程度に(それこそ「データベース」上の1データとして)読んでくれたらいいと思う。
簡単なまとめ
箇条書きで書いてみるよ。内容を理解するには本を読んで下さい。読まずに済ませるためのまとめではない。
- 「一般意志」は、ルソーの『社会契約論』に出てくる概念
- 「一般意志」とは、個人の意志(特殊意志)の集合体である共同体の意志である
- 「全体意志」(特殊意志の単なる総和)と「一般意志」(特殊意志の差異の和)は違う
- 「一般意志」は常に正しく、常に公共の利益に向かう。政府は一般意志の執行のための機関。
- 「一般意志」が現れるには、個人の熟慮があればよく、コミュニケーションは無い方が良い(部分的結社の禁止)
- 「一般意志」は人間の秩序ではなく事物の秩序に従う
- 「一般意志」を正しく掴むには、超人間的な存在(天才)が必要
- 「一般意思2.0」は、総記録社会において、個人の欲望を記録・蓄積したデータベース
- 総記録社会における記録は、無意識的に自動的におこなわれる
- データベースを数学的に処理し可視化する(集合知)ことで、一般意思2.0にアクセスできる
- 現代社会はあまりにも複雑化しているため、熟議によって公共性を形作るやり方での政治は限界が来ている
- 新しい政府(政府2.0)は、熟議とデータベースが互いに補いあうことで成立する
著者ご本人の解説
Twitterで著者が解説していたので引用しておく。議論の文脈などは「臨床とドゥルーズ&ガタリ / ラカン的欲望と『一般意志2.0』 - 精神科医@schizoophrenie と東浩紀 - Togetter」を参照。
エンジニアがこの本を読むと「データベース」とか「集合知」という字面に引っ張られて、ITの素人がとんちんかんなことを言っているように思うかもしれない。この補足が無ければ自分もそう思っていたかもしれない。
「転移関係があれば欲望を発見できる」と「アルゴリズムは必要ない」は解説が要ると思う。
会話ソフト「ELIZA」
ELIZAというソフトウェアについて、プログラマなら名前ぐらいは聞いた事があると思う。Wikipediaにも項目がある。
ELIZAについて紹介しているページがあったので引用する。
人工知能研究の黎明期だった1960年代中期にジョセフ・ワイゼンバウムによって作られたプログラムです。ELIZAは、擬似的に人間との対話を行うことができました。ロジャー派の精神分析法を用いる精神医として振る舞い、その結果多くの人間がELIZAが実際の人間であると信じて疑わず、さらには実際にカウンセリングによって癒されたと感じる人間まで出現したのです。
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ELIZAは精神科医によるカウンセリングをエミュレートするプログラムではなく、人間が入力した単語に反応するだけの、いわゆる「人工無脳」の類いである。にも関わらず、「癒されたと感じる人間」が出てくるのはなぜか。会話をおこなっていた人間がELIZAを実際の精神科医と信じていたから、転移が生じていたからと考えられる。逆に転移さえあれば複雑なアルゴリズムがなくても、実際に人間を癒したりするようなフィードバックループを駆動させる事が出来る。*2
一般意思2.0というのは、高度なテクノロジーで「大衆の本当に望んでいること」を抽出する人工知能的な物と考えるよりは、大掛かりなELIZAのような物と思った方がいいんじゃないだろうか。もしアルゴリズムが求められるとしても、正確な統計処理のようなものよりも、フィードバックループをうまく駆動させ続けるような仕組み(入力されたコメントがリアルタイムに右から左に流れるようなキャッチーなUIとか)が必要ではないかな。
それよりも、むしろどうやって転移をおこさせるのかが良く分からない。その場合の「知を想定された主体」は一体どこにあるのか。データベースシステム自体なのか、それを利用する一人の政治家なのか。
一般意志2.0としての「やりましょう」
一時期よく見られたTwitterの名物的なイベントとして、一般のユーザがソフトバンク社に対する要望をTwitter上のメッセージとしてソフトバンク社長の孫さんに送ると、それが孫社長の目にとまり、「やりましょう」という返事とともに要望が実現されるというのがあった。
この「やりましょう」はとても一般意志2.0的だと思う。
直訴メッセージを孫社長が一つずつ吟味し、その場で意思決定をしているとは思えない。おそらく、意思決定のプロセスは社内の「熟議」によって行われているのではないかと思う(あくまで想像です。) ただ、直訴メッセージが何かユーザの雰囲気のようなものを(つまり「大衆の欲望」を)伝えているというのは十分考えられる。これはまさに「熟議と欲望が互いに補いあうことで成立する」と言えないだろうか。
ここで一つのポイントだと思うのは、孫社長が個々のメッセージに対してリプライ(非公式RT)を返しているということだ。「皆様のご意見で○○が多かったので」ではない、つまり集計結果に対してではない。あくまで個々のメッセージに対する返答であり、それによって直訴をするユーザと孫社長の間に転移関係が生じるのではないだろうかと思う。「誰が知っている」かといえば孫社長であり、「誰の欲望について知っている」かといえばメッセージを送った「わたし」であるという関係である。「どこかの誰か」ではなく、「わたしたち」でもない。
統計処理によって抽出されたものは「欲望」足り得るのかというのが疑問である。統計処理によって「差異の和」というより均された「単なる和」になってしまわないかというのもある。
ビッグデータと一般意思2.0
総記録社会における個人の無意識的な行動の記録、といえば、最近だと「ビッグデータ」が連想される事が多いだろう。バズワード化して乱用されているけど、概ね「大量」で「非定形」で「リアルタイム性の高い」データのことをビッグデータと呼んでいる。
ビッグデータは、いわゆる「データベース」という言葉で連想されるRDBMSではなく、Hadoopなどの分散ストレージに格納される事が多い。RDBMSとの大きな違いは、RDBMSはデータ構造(スキーマ)が決まっている為、あらかじめ決められたフォーマットに整形して格納するのに対して*3、とりあえずデータを非定形のまま格納し、後で並列に実行されるジョブエンジンなどによって情報を抽出するという、処理のタイミングの違いがある。
差異の和としての一般意思にふさわしいのは、整形されたリレーショナルデータベースのレコードではなく、差異を差異のまま格納したビッグデータではないかと思う。おそらくこの本で「データベース」と表現されているものもそれに近いのだろう。
つまり、ビッグデータというのはHadoopに突っ込めば何か自動的に統計データが出てくるのではなく、仮説を当てはめることで初めて意味のあるデータを得ることが出来る。誰かがデータを「分析」し「診断」するフェーズが存在する。
ビッグデータを「診断」する分析家が居て、分析結果を投げ返す事で、診断と症状のキャッチボールがおこなわれ、初めて欲望と呼ばれるような物が出てくるのではないか。
当然だけど、この場合フィードバックループが回っている事が重要で診断結果の妥当性とかはどうでもいいです。正確かというより、説得力があり、かつ相手をびっくりさせるような結果が大事じゃないかな。(というかループがある事によって事後的に正しい結果とされるに過ぎない。)
まとめ
エンジニアがこの本を読む場合に「データベース」とか「集合知」というキーワードに惑わされがちだと思うけど、情動のフィードバックループを回す事で政治にダイナミズムを取り戻す、という部分が大事だと思うので、実現の難しい遠い未来のことと思わずに、どんどん面白いサービスを作ってリリースしたりすればいいと思う。
- 作者: 東浩紀
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